能登半島地震で始まってしまった今年は龍の年ということで、トップ画面に近年制作した龍をモチーフとした作品をアップしてみました。僕はなぜだか「龍の存在を無視することができない」のです。
龍は架空の存在のはずなのだけど、世界中のどこにでも存在します。僕の活動と龍との関わりについてはこれまでも何度か書いてきました。興味ある方は過去のNOTEとかでご覧ください。(あまりいいテキストではないです)
僕の最初の衝撃的な体験は16歳の時、初めて訪れた京都の妙心寺でのことでした。その法堂の重い扉を開けて緊張感のある厳かな空間の天井を見上げた瞬間、天井から降りてくる龍を目撃したのです。1650年ごろ8年の歳月をかけて描かれたという狩野探幽の八方睨みの龍「龍雲図」。
それが確かに数百年の間、そこに存在していることに捉われてしまいました。「なぜ、そこに堂々といるのか」 三十三間堂の千手観音像や二十八部衆、法隆寺の弥勒菩薩像に並び、僕が目指す美術作品がそこに存在し続けている意味や役割のようなものを意識し始めるきっかけとなりました。
人類が進化する段階で、数多くの地震や洪水などの災害に遭遇し、時には地層の奥深くから現れた巨大な恐竜の化石などを目にし、大地を揺るがし、天変地異をもたらす大きな力の存在をイメージし、驚き畏れたことだろうと想像します。そしてその恐怖、危機、苦悩と、それから逃れるためのあらゆるイメージが数百、数千という世代の継承とともに変化しながら受け継がれ、展開し、定着し、変容しつつ、さまざまな知恵として形になってきたのだろうと考えています。
しかし、どこまで科学が発達したとしても、人工知能が人間の知識を超えたとしても、この世界は未知の存在で満ち溢れていることは変わらないのだろうと考えます。人が未知の存在を畏れ、敬い、それらを「理解しようとする態度」そのものが人間として大切なのだろうと考えます。そして、その活動に没頭する時間の質が重要で、それぞれの時代を生きる力になってゆくのだろうと思うのです。
これから30年、これまでもそうであったように、また新たな変容が始まります。そこに僕らは何を感じ、何を考え、何をなすことができるのでしょうか。いつもこの疑問しか思いつきません。次の世代に託す前に、今、僕がここでできることが何なのか、動きたいと望んでいるのですが・・・体が、感性が、筋力が、瞬発力が・・・いろいろ鈍い。
Fuji Studio Co. 藤 浩志