株式会社 藤スタジオ 代表 藤 浩志
美術家・秋田公立美術大学教授、NPO法人アーツセンターあきた理事長、秋田市文化創造館館長
1960年鹿児島生まれ。大島紬、江戸小紋、日本画に興味を持っていたが高校2年の時、土門拳と出会い仏像、寺院建築への興味から京都市立芸術大学染織科に入学。在学中に友人と演劇を始め空間をつくることに興味を持つ。劇団引退後(引退した劇団はその後ダムタイプの母体となる)「京都情報社」を設立。「鴨川泳ぐこいのぼり」「ゴジラ君の散歩」「ゴジラとハニワの結婚離婚問題」「がまくんとかえるくんの紙しばい」「軽茶倶楽部」「カメハニワの棲む島」「松ノ木の憂鬱」等まちと関わるデモンストレーション(美術表現)を通して表現の現場を求め始める。同大学院修了後1986年青年海外協力隊員としてパプアニューギニア国立芸術学校に赴任。原生林で「野豚を追うヤセ犬」と出会い、「社会的に価値を認められていない存在にエネルギーを注ぎ、圧倒的に感動的な状態に変化させる技術としての芸術」を着想する。1988年帰国後「地域・協力関係・適正技術」をベースとした表現を志向し、地域と社会システムを学ぶために東京の土地再開発業者(地上げ屋)・都市計画事務所に勤務し、取り壊しになる家に暮らしながらその柱からヤセ犬を彫る「101匹のヤセ犬」をライフワークとする。1989年東京でサラリーマンをしながら鹿児島の実家の生家を改装しヤセ犬を裏のキャラクターとしたmedia garden イイスペイスをオープン。パブリックアートとしてのカフェの運営をはじめる。1990年職場の社長の信念との対立がきっかけとなりお米の物々交換を試みる「世界食糧銀行構想」、1991年給料一か月分で購入したお米を利用した「お米の砂漠」「犬のおしっこ」など会社への意見を個人的表現としてぶつける。1992年世界人口の増加に伴う33年後の未来を予測する「2025カエルの池シンポジウム」でのジャパン・アートスカラシップグランプリ受賞をきっかけに都市計画事務所を退職。築地の魚河岸で早朝のバイトをしながら個人事務所、藤浩志企画制作室を開設。1993年鹿児島に拠点を移した途端、水害に遭遇。イイスペイスを拠点に石橋保存運動に関わりながら、全国各地・アジア各地でのアートプロジェクトの現場を巡る。1997年に鹿児島イイスペイス跡地に30年後にアートセンターとしてリノベーションすることを目的とした新築の複合ビル「イイテラス」を計画。1998年竣工、借金と税金に苦しむ生活が始まる。福岡に拠点を移し養鶏場跡地を改装し「Studio Farm」開設。その頃から[対話]と[地域実験]を重ねる手法を試みる。オープンミーティングテーブル「plants!」、灯明を利用した「博多灯明」、日常の廃棄物を利用した「Vinyl Plastics Connection」「Kaekko」防災教育プログラム「イザ!かえるキャラバン!」等、全国各地でワークショップとデモンストレーションを重ね、地域に活動の発生を促す[OS的表現]を模索。 一方でプロジェクトによって集まってしまう大量の廃棄物素材やおもちゃ破片類の素材を利用し、「Happy Ring」「夢の鳥」「Toys Saurus」「Happy Forest」「Toys Paradise」「飛龍」などの表現空間とツールの制作を試みる。また活動が発生する場とその仕組みづくりの実践として大阪此花区での「此花メヂア」「此花アーツファーム」埼玉県北本市での「北本タワー」「北本ビタミン」、架空のキーパーソンを作り出す瀬戸内海の豊島での「藤島八十郎をつくる」など新しい拠点作りを模索。2011年東日本大震災がきっかけとなり東北に拠点を移し、公立の文化施設の運営に関わりながら、地域に部室を作り出す「部室ビルダーかえるぐみ」「超訳びじゅつの学校」などを試みる。NPO法人プラスアーツ副理事長、十和田市現代美術館館長、十和田奥入瀬芸術祭アーティスティックディレクターを経て現在秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科・アーツ&ルーツ専攻教授 2018年4月秋田公立美術大学を母体としてNPO法人アーツセンターあきたを設立。理事長を拝命。2021年より秋田市文化創造館館長。職場と在住は主に秋田市。秋田市大町の明治20年代に作られた古民家「大町クラシック」が拠点。本社と自宅は福岡県糸島市筑前深江海水浴場の古民家海の家スタジオ「うみかえる」と、その裏側のぬいぐるみ断熱の家「うみてらす」その一階がかえっこ事務局のおもちゃ類集配所。たまに帰っても猫に占拠されていて悲しい。
最近の活動はFaceBookになるべく掲載しています。FujiHiroshi Facebook
藤浩志の日々の活動を報告するブログサイト(最近あまり使っていません) http://geco.exblog.jp/
藤浩志の活動前半のなが〜いインタビューはこちら